遺跡をたどる。
皆さんは今自分が住んでいる土地の昔の姿を知っていますか?
今や開発されて見えなくなった場所にも、過去への記憶は埋まっています。
「河原口坊中遺跡って?」
首都圏中央連絡自動車道(さがみ縦貫道路)の建設や、河川改修工事などの事前調査として発掘が行われた「河原口坊中遺跡」。
もっとわかりやすく場所をいうと、
相模川・中津川・小鮎川の川が合流する地点の東側にあり、厚木駅の北西約1㎞付近にそれはある。
あ、急行が止まらないと私の中で話題の厚木駅近くですね!
約2000年前と言っても想像できないですが、その2000年前の弥生時代の暮らしを思い起こさせるような数々の土器や木製品などの遺構、遺物が発掘され、また、竪穴式住居が見つかった事により、そこには約500棟の大規模集落があった事が発覚したのです。
出土した木製品が原型を留めた状態で発見されたのもこの遺跡の特徴で、遺跡の多くは土中に含むバクテリアによって木製品が分解されて腐食してしまうのに対して、この遺跡では、水分を多く含んだ泥が真空パックの代わりになり、酸素を遮断し、臼や杵といった木製品の保存状態が良いまま残ることができた、とか。
発見された臼と竪杵は主に稲の脱穀に使われていたことから、当時の人々は積極的に稲作を行っており、そこには稲が揺らめく水田が形成されていた可能性が見える。視界一面に畑が広がり、そこで暮らす人々が和気あいあいと作物の栽培を盛んに行っている姿が私の頭には想像ができた。
臼はケヤキやムクノキなどの硬い樹種、杵はアカガシ亜属、ツバキ属の硬くて重い樹種を使っていることから、集落の周りには様々な木々が生え自然環境も揃っていたように思う。臼や竪杵をはじめ、木で沢山の道具を作成し、使用し、保存や居所として大型の倉庫や、高床式の建物が建っているのです。
想像しました?ちゃんと想像してくださいね。
そして、発掘された中の板状鉄斧という代物。あの時代の原料から鉄を生産する技術が日本に無かったことから、1200キロと離れた朝鮮半島から運ばれてきたものと予想されています。広域の繋がりがそこにはもう存在したと考えられますよね。
土地は大きな声で、過去を語らないけれども、私たちがその欠片を拾うと土地は過去の歴史を語り、その魅力を披露し、魅了してくれる。
その場所に「何もない」なんてことはない。そこには必ず過去とその記憶と物語は存在するのだから。
自然の奇跡で、私たちはそこで田畑を耕し、米や作物を食べ、獣や魚を狩り、他の地域とも交流の幅を広げ様々なものを利用し、豊かな生活を送っていたことがわかったのだ。
これはあれだ。私も庭とかに、現代の特徴的な何かを埋めたら、2000年後に掘り出されて、記事として取り上げられたりするかなぁ…。
例えばタピオカ…とか?タピオカはちょっとなぁ…
よし、ちょっと、スマートフォンでも埋めてこようかな!
文/小林 愛 イラスト/和田 有里絵